ブログっ...!

最近はミソフォニアのことばかり書いています。もうミソフォニアブログです。

私的なこと

最近、神宮で起きた某火災事故で非常にやるせない気持ちになった。
(相模原の夏の事件でも同じような気持ちになった。年に2、3度ある。)

父親の悲痛に助けを求める声や、困惑しながらもオブジェを懸命に動かそうとする背中や、 更には遺体まで写っているとかいうショッキングな動画がすぐそばにいた人間によって撮影され、ネットに公開されているらしいが、もちろん見たくないし見るつもりもない。 (遺体が写るところ以外はテレビのニュースで放送されているため、一部は見てしまっていることになるが。)

もちろん、怖いもの見たさの好奇心がないわけでもない。 それでも事件概要を知った後では、見る気にならなかった。

ツイッターではほぼリアルタイムに火災を至近距離から撮影した画像が拡散された。 消火活動をする人の後ろ姿が写っていたり、手前の方には少し離れたところに立つ野次馬の姿やら。 その中で一番衝撃的でやるせなくなったのは、その野次馬がみんなスマートフォンを掲げていたことだった。

もちろん、どうすればよいかわからなくって立ちすくむのは仕方ないことだと思う。 もし私がその場にいたら、高確率で救助や消火に積極的に加わらず、恐怖で棒になっている。 展覧会で火災が突然起きて、(火のまわりが相当速かったらしいので本当に一瞬で) 「中に子供が」と必死で泣き叫んでいる人がその近くにいたら、 なんとか助かるように祈ることさえもできずに、ひたすらに震えて突っ立ていると思う。 完全にその状況が異質だから、そうなってしまうのが情けないかもしれぬが仕方ないことだと感じている。

それでも、撮影する神経については全くわからない。 安いジャーナリズム精神だか、話題稼ぎだか知らんが、撮影したものを売り出して一体それは何のためになるんだろう。 糾弾されるべきだと思う。父親が助けの手を求めて後ろを振り向いた瞬間を想像すると吐き気がする。

まあ撮影者の神経が理解できないというのは確かなのだけど、どうしても自分の中で説明がつかないことがある。 というのも、以下二点の疑問点より。
・動画を撮影することによって社会にインパクトを与え、(特に今回のような過失による事件では)再犯防止効果があるのでは
・事件を撮影する行為を否定してしまっては、写真家はどうするのか

一つ目は、まあまんま。 この事件がここまでフューチャーされたのも、その火の強さを写す瞬間が、悲惨な父親の姿や声が視聴者の感情移入を誘ったからであるのは間違えないと思う。 白熱電球が火災を招きえて危険であること、決して火災を起こす上で危険なのは火それ自身だけではないこと。等...

実際に私も恥ずかしながら事件報道当初、白熱電球で着火するのか、と驚いた。 (まあ美術館の大きな照明具に近づくとすんげえ熱いことくらいは知っていたけど。 いや、しかし続報を受けて、「配線を木屑の中に置く」のはさすがにあり得ないと引いたが。) 一部の人が知らない情報を大きなインパクトと共に植え付けたと思う。 (防げなかったことと違って、未然に防げたことはニュースにならないが。) 撮影し公開することにより良い効果があるのは確かかと。まあでも積極的にほしい効果かは知らん。

二つ目について。 このニュースで見て、新宿西口バスの放火事件を思い出した。 新宿西口バス放火と言えば、バスが映画のように燃え盛っているシーンを撮影した写真が思い浮かぶが、 その撮影者の男性の妹がこの事件で重傷を負っていたというのも同じくらい有名だと思う。 偶然通りかかったこの男性はプロのカメラマンで、撮影することが職業なわけである。

この男性を非難する声もあったらしいが、なぜか先ほどの事故と違って私は「ひどい」と思えない。

同じような感じで、ベトナム戦争の象徴とも言える「安全への逃避」という写真があるけど、 この撮影者も「救助をなぜしないのだ」と非難されている。

これも同様に「ひどい」と思えないのだ。

プロか、素人かってだけで、やっていることは本質的には同じなように見えるんだけど。 そこに信念があるかどうか。 公開時に自身の名前も付け加えているかどうか。 とかいろいろこじつけを考えてみたが、あんましっくりこない。

まあ、私がそう感じないだけで、一般的には報道写真家って一般には非難されることが当たり前なのかもな。 「でもいなきゃ少なくとも困る存在なわけである。記憶から消さないためには。」が真とすれば、 プロがいつもそういう瞬間に偶然遭遇するとは限らないので、たとえ素人でも撮影する道具があれば撮影することは肯定される。

それでも、今回の神宮の事件はあまりにも悲しいと思ったんだよ。 このあたりの説明がうまくつくまでは堂々と否定できないけど。


話はちょっと変わる。 私が数年前から思っていたことを書く。

思わぬ事故に巻き込まれて亡くなったり、大切な人を失ったりする人々は毎日だいたい一定数いる。 そういう人々は事態の直前までは普通の平坦な生活を送る人間だったわけである。(だいたいな)
それが一瞬で崩落して、死ぬ人はなぜ自分が被害に遭わなければいけないのか、わけのわからぬまま死に、 生き残った周囲の人は大切な人を失った不幸を一生背負わなくてはいけなくなる。

本当に理不尽な世の中なんだけれど、まあだいたいいろんなことが理不尽である。 平和な生活をしているので、大口を叩けないが。

私は「そうであってほしいと望むのなら、そうでなくなることも同時に覚悟しなければいけない」という考えである。

明日は〜しよう、とか、いつか〜しよう、とかいう望みは、そのときに生きていることを前提にしているけど、 対になっているものは確率はどうであれ起こりうる。 生きることを望むなら、死ぬことも覚悟しなくてはいけない。 勝手に前提にしただけなので、直面すれば有無を言わず受け入れるしかないのだ。

この考えが正しいと身にしみるとき、本当にやるせない気分になる。

おととい帰路についたとき、母親のことを思った。 母親には出来る限り健康に生きていてほしいが、それは健康に生きれずに死んでしまう可能性も暗に意味している。 明日にでも、何でも、突然母親が亡くなることになっても、受け入れるしかない。 そう思うと、泣けた。(本当に歩きながら泣いたw)

理不尽さをいつも念頭に置いて幸せに生活することは絶対にできない。 わずかにでも忘れるか、霊的なものに頼るかしないと。

私も数日たったら「いつか被害に遭うかもと構えてもしかたない」と、忘れると思う。

でも、やるせない事故がある度に、それを垣間みて虚しくなる。 そういうものだ。。